マタイによる福音書――Konton流聖書の読み方[その1] |
まず第1章はアブラハムから始まって、マリアの処女懐妊までのストーリー。精霊によって懐妊した旨がヨセフに夢によって伝えられる。
第2章:イエス誕生物語です。例の東方から博士達がやってくる話とか、エジプトへの脱出行とか。
第3章:バプテスマ(洗礼)のヨハネのことと、イエスが彼から洗礼を受けた話。
第4章:イエスの44日間の断食の話。空腹になったイエスにさっそく悪魔が誘惑を試みる。例の有名な言葉「人はパンのみにて生きるにあらず」はここに書かれています。この後イエスは宣教を始めすが、この時これも有名な「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣言しています。ガリラヤ地方での活躍が描写されています。
第5章:ついて来る多くの群衆を見てイエスは山へ登って説教を続けます。いくつかの有名な言葉が述べられる。私の興味を惹くのはそうした有名なセリフではなく、次の2点です。第1に、第17節のイエスの「わたしが預言者や律法を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」という言葉です。これは自分がアンチ・ユダヤ主義でもアンチ・律法主義でもない、ただ腐敗してしまっているそういうものを正しに来たのだ、と宣言したものですね。第2に、第21節以下に書かれていることで、裁判や儀式が形骸化していることに対して、もっと自分の心の有り方を正すことこそ大切なのだと主張していることです。これはブッダの教えに共通するものだと思います。38、39節には「目には目を」に対して「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」を説いています。
第6章:偽善者の行為を徹底的に糾弾して、そのようにするなと戒めています。また「空を飛ぶ鳥をみよ、野に咲く花を見よ」といって、「何を食べようか、何を着ようか」と思い煩うことの愚を諭しています。
第7章:説教は続きます。沢山のたとえ話。「なぜ、兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか(3節)」とか、「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな(6節)」(これは「豚に真珠」の原典)など、さらに超有名な「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん(7節の文語体訳)」もここに書かれています。とても分かり易いですね。聴衆はその内容の新しさにビックリします。「律法学者達からこんな分かり易い話は聞いたことがない!と。
第8章:山を降りたイエスは、奇跡を癩病者や中風に苦しむ人、高熱で起きれない人、悪霊憑きなどに行います。また湖上を渡っているときに暴風に会うが、これも簡単に鎮めてしまう。奇跡特集みたいな章ですね。
第9章:引き続き奇跡を行いながら、多くの罪人や取税人(律法上は罪人)と同じ屋根の下で食事をしているとき、パリサイ人にそのことを非難されますが、イエスは「丈夫な人には医者は要らない。ここに居る人達はみな病人です」と答えたのでした(おみごと!)。その後イエスの衣に触った女の病を癒したり(20~22節)、死んだ娘を生き返らせたり(23~26節)。盲人(27~30節)も唖も直してしまう(32~33節)。これら沢山の奇跡物語が書かれていますが、大切なポイントはイエスが彼らの病を治したというより、病人たちの信仰心が本物であったことが事例毎に書かれていることです。この点をきちんと読み取らないと、私たち自身が当時のパリサイ人と同じになってしまいます。
次の10章から今までと内容がかなり違ったものに私には感じられます。時間的にもここの部分を書いた人も9章までとは違っているのではないかとさえ思えてきます。10章以下は[その2]でお話することにします。