日本に民主主義は存在しない(38)・・・社会的責任が存在しない日本の文化の起源は神道か?(Ⅰ) |
さて、日本はどうしてこれほどまでに無責任な社会になってしまったのでしょうか。その寄って来るところはどこにあるのでしょうか。その一つに神道が挙げられるのではないでしょうか。
神道は宗教とは言えません。そこには宗教としての思想も哲学もありません。教義すらないように見受けられます。儀式(祝詞やお払いなど)があるだけです[注1]。政治との関係も不明、というより明治維新から1945年(敗戦)までを除いて皆無です。古代から江戸時代までは、なにやら天皇が神殿に篭って神とやり取りをしているらしいが現実社会にはまったく関係ない、といった状況でした。政治は江戸幕府がちゃんとやっているから問題なかったのでしょう。以前のブログに書きましたように、日本はずーっと(明治維新までは)天皇は祭り(神事)を、将軍が政(マツリゴト=政治)をやるという分業体制だったのです。
ここにも「分からないこと」が「ありがたいこと」に通じる日本独特の(?)文化があります。民には知らしむべからずなのです。[注2]
こうした神道は、合理性とか、普遍の真理とかいったものとは馴染まないのです。ここから日本独特のあらゆること(特に公的に大切なこと)で「責任の所在を明らかにしない」という伝統が生まれてきたのではないでしょうか。一つの問題を突き詰めていっても、到達点と言えるものが無いのです。責任の所在につきあたることが出来ずに、何も見えないままになってしまうのです。(つづきます)
[注1]日本書紀の用明天皇の項に「「天皇、仏法を信じ、神道を尊びたまふ」とあります。仏教を宗教として信仰し、神道を崇めて祭ったということでしょうか。明らかに宗教とは別のものとしていたようです。
[注2]3年ほど前のブログに「民には知らしめない」のが日本政治の伝統であることを書きました。・・・2006年10月27日:今日の言葉「民はこれに由[ヨ]らしむべし、これを知らしむべからず」:http://blog.livedoor.jp/konton_1937/archives/50824093.html