今日の言葉:「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」 |
最近のスポーツは格闘技になってしまっている例が多く、その傾向はますますつよくなってきています。レスリングはもとより相撲ですらそうです。相撲では古来「心技体」が大切なものとされていたはずなのに、いつの間にかそのうちの「心」がどこかへ行ってしまったのではないでしょうか[注1]。サッカーもサポーターを中心に勝つことしかその目標に無い。オリンピックでも関心はメダルを取ることに集中してしまっています。金メダルを持ち帰ると国民栄誉賞とか名誉市民などとわけの分からない賞を貰ったりします。「勲章を喜ぶのは軍人と幼稚園の子供たちだけ」という言葉もありました。そして権力者は勲章を上げたがる・・・受賞者の上に居る気分に浸れて、自己満足できるからでしょうね。
オリンピック関連で思い出すもう一つの言葉あります。IOC(国際オリンピック委員会)の第2代会長を務めたクーベルタンの言葉とされている「オリンピックは参加することに意義がある」というものです[注2]。今ではオリンピックの商業主義とともに死語になってしまいました。そもそもオリンピックの招致に成功することがその地方の政治的かつ経済的な成功になってしまっています。
閑話休題、「健全なる精神・・・」の方に話しを戻してこの言葉の原典を調べてみましょう。2世紀初め頃のローマの風刺詩作家にユウェナリスという人が居ますが、出世に見放されていたようで、腹いせにネロとドミチアヌスの治世の悪口を書きちらしていたようです。彼の『風刺詩集』の第10編第356行に“orandum est, ut sit mens sana in corpore sano”(ラテン語)があります[注3]。当時の市民は娯楽にうつつを抜かすばかりで(ローマのコロシアムから容易に想像できますね)精神的には最悪の状況にあったようです。このことを知っていれば風刺家としてのユウェナリスの言いたいことも正確に想像できます。「(神に)願い事をする(これが当時流行っていました)なら美しい肉体ばかりではなく、健全な精神の方も忘れてはいけません」ということではないでしょうか。それを後の世になると為政者どもが好き勝手に解釈してしまいます。極端な例がヒットラーでしょう。青年たちよ立派な兵士になれ、という激励に使ったのです。ゲルマン民族は美しい選ばれた民族である、とか言ったかどうかはさだかではありませんが。
ナチスはともかく、闘争心が前面に出てしまったロンドンのオリンピックで、争い合う選手たちに「健全な精神を忘れちゃいませんか」と活を入れるのに利用したのでしょう。しかし現代になると、今度はオリンピックの商業化の路線に合わないと判断されたのか、運営者の方からまったく使わなくなってしまいました。
現代の日本でも、スポーツでスターともなると莫大な収入が手に入るためでしょうか、多くの若者達が一攫千金を狙ってスポーツにうつつを抜かしてまともな努力をしなくなってしまいました[注4]。スターになれなかった人たちは、スポーツ観戦者やサポーター側に回って大騒ぎ。世間の憂さを晴らしています。ユウェナリス流に皮肉を言いたくなりませんか・・・
[注1]その心技体を体現しているはずの「横綱」の品格がなくなってしまっていると思うのは私だけでしょうか。勝ったときの振る舞いや表情がいただけません。まるで喧嘩にかったガキ大将みたいですね。
[注2]事実を正確に言いますと・・・1908年のロンドン大会で英米の選手間に争いが起きた。このときにアメリカのタルボット司教が選手たちに「この五輪で重要なことは、勝利することより、むしろ参加したことにあろう」と説教したのですが、後に会長によりこれが引用されたということのようです。
[注3]私流に意訳してみますと・・・「健全な精神(心)が健全な肉体に」と祈るべきだ。(私はラテン語は知りませんが、ラテン語の辞書とフランス語のごく限られた知識から推測しました。間違っていたらご指摘ください)
[注4]アメリカでは差別の真っ只中に居る黒人たちが、貧困からの脱出の唯一の出口としたのがスポーツと音楽(ジャズ)でした。差別が拡大し確定し始めた日本の今のご時世に同じ現象がみられるようになったのでしょうか。